私の考え方

 

それが……芸術?

私は、意味のわからないものを、「アートだ」「芸術だ」と呼ぶのが嫌いだ。

簡単な例を挙げると、パブロ・ピカソの『泣く女』だ。

ピカソは普通に上手い絵を描くことができたし、彼が描いた数々の本当に上手い絵がたくさん残っている。

それなのに、『泣く女』をはじめとする意味のわからない作品をアートと評価するのはどうなのだろうか。

芸術は多くの人が感動してこその芸術だと思う。

幼稚園児が書いたよくわからないものに色を塗りました。

みたいなものがアートと呼ばれるのは、いかがなものかと思う。

なぜなら、そんなものは誰でも作れると思うからだ。

多くの人が真似できず、「凄い!」「上手い!」「美しい!」と言ってしまうような作品。

それこそが真のアートなのではないかと私は思う。

占いについて

「うわ~、最悪だ」と思った出来事があった日に、スマホでなんとなく検索したページに星座占いがあったので覗いてみた。

そしたら、まさかの12位。

(・・・あたってるじゃん。)

普段は占いなんてまったく信じないタイプだが、イヤな出来事があった日に占いをふと見て、その結果が当たっていると、つい占いを信じたくなってしまう。

しかし、冷静になって考えてみると、嫌なことがあった日に星座占いを見てそれが12位の確率は1/12。

1/12 = 8.3%

10%には満たないものの、8.3%ならけっこう頻繁に起こるよなコレ。

というわけで、やっぱり占いは信じるに値しないなと、そう思った次第です。

また、あくまでも私の体感ではあるけれど、女性は現実主義な人が多い気がする。

しかし、女性は占いを信じている人もまた多い気がする。

そう考えると、女性は現実主義だが占いは信じる?

これは一体なぜなのだろうか。

ふと疑問に思った。

アドリブのコミュ力が欲しい

家にある食器を整理したいと思ってWebで検索すると、セリア(100均)に縦置きのお皿スタンドがあることがわかった。おー便利じゃん!と感心し、私は早速セリアへ買いに行ったのだが、その時にこんな出来事があった。

店内を10分ほど探すも、お皿スタンドが全然見つからなかったのだ。私は近くにいた店員さんに聞いてみることにした。20代前半と思われる女性の店員さんだった。

「すみません、縦置きのお皿スタンドを探しているんですけど、ありますか?」

「少々お待ちください。」

5分ほど待つと店員さんは帰ってきた。

「すみません、こちらの店舗では売っていないみたいです。」

「それは、セリアの他店舗では売っているということですか?」

「いえ、そのような商品自体を取り扱っていないようです。」

「そうですか、ありがとうございます。」

(うそー???Webを見る限りあったぞ???とりあえず、もう一度自分で店内を探してみるか)

数分後

(あれれ、あるじゃん。)

そう、見つかったのだ。

(店員さん、しっかりしてよ~!)

その時に私は迷いました。「無いです」と言った店員さんに「ありましたよ」と言うべきか、言わないべきか。

店員さんが無いですと言った以上、「ありましたよ」って言うのは嫌味っぽくなるし、店員さん良い気はしないよな。その反面、若い店員さんだし、今後のために「ありますよ」って伝えてあげるべきだろうか?・・・私は悩んだ。

結論を言うと、伝えてあげるべきだっていう考えに至りました。

が、しかし、その時は嫌味っぽくならずに、こういう商品ちゃんと売ってますよっていう良い伝え方が全然思い浮かばなかったので、面倒くさくなって帰りました。

相手に嫌味を感じさせずに伝えたいことをハッキリと伝えられるアドリブのコミュニケーション能力が欲しいなとしみじみ思いました。

なんて伝えるのがベストだったんだろうか。

「このお皿スタンドが目に入らぬか!」

とか、

「すみません。ちょっとこっち来てください。あ、ここです。勝手に入荷して、棚に並べておきました。」

とかかな。

・・・ん、なんか鳥肌立ってません?暖房点けときますね。なんか急に気温が下がったみたいなので。

ポリコレなんて要らない

ポリコレとは、「ポリティカル・コレクトネス(political Correctness)」の略称。

= 特定のグループに対して差別的な意味や誤解を含まぬよう、政治的・社会的に公正で中立的な表現をすること。

なんだけどさ、そんな配慮いらなくない?

ポリコレなんて考えなければならないような、そんな生きにくい社会で良いの?

多様な価値観があるどころか新しく次々と生まれてくるような社会で、全てにヘコヘコして生きていく必要があるなんて馬鹿らしくないだろうか。

悪意があって差別的な表現をすることは良くないことだと思うけれど、意図せずに差別的な表現をしてしまう人も多々いるだろう。

しかし、その表現を聞いた時に、この人は悪意を持っていないなというのは、聞く側が判断できることだと思う。

それが判断できない場合は、その人のコミュニケーション能力が足りないだけだと私は思う。

だから捉える側が今の表現は差別的な表現を含んでいるけれど、「まあ、悪意は無さそうだし、良いか。」とポジティブに考えれば良いだけの話ではないだろうか。

いちいち全てに配慮するなんて生き方、不自由以外のなにものでもないと思う。

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