私はすごく嫌いな言葉があります。
それは「常識」です。
「常識」と口にする人は、根源や本質をまったく考えずに受け入れている人が多いと思うからです。
以前、こんな体験をしたことがあります。
ある冬の日の出来事です。
職場で上司に小言を言われていた私は、とある癖を魅せつけていました。
「ニホンヨミガエル」の物真似です。
はい。そうなんです。
男に生まれておきながら情けない話なのですが、冷え性で寒がりの私は、寒いと感じると無意識に腕を組んでしまう癖があるのです。
女性には結構いると思います。
室温が低くなっているスーパーの生鮮食品売場などでは、ニホンヨミガエルをよく見かけます。
同様に、私も冬場はカエルにされてしまう呪いにかけられているのです。
物真似したくてしている訳ではないのです。
仕様なのです。
先述のように、上司から小言を言われている時も平常運転でカエルになりきっていました。
ニホンヨミガエルです。
「常識」ある方なら、お察しのことでしょう。
ええ、そうなんですよ。
それはもう「常識」なので、上司に怒鳴られましたよね。
上:「お前、どんな態度で人の話を聞いているんだ?」
私:「??」
上:「腕組んでんだろ、偉そうに!」
って。
私は反論しました。
私:「なにが偉そうなんですか?寒いから腕を組んでいるだけなんですが、腕を組んでいたらいけないんですか?なんでですか?」
上:「話を聞く時の態度ではないだろ!そんなの常識だろうが!」
(意訳:よくわからないけど、そう聞いたことがあるから、話を聞く態度ではないってことで、ヨシ!)
私だって「常識」は知っていますが、理不尽だと思ってしまう「常識」では納得がいきません。
上司はキレて帰ってしまいました。
めちゃくちゃ冷めました。
(そんな常識、誰が一番初めに言い出しやがったんだ、まったく!と。)
「腕を組んでいたら、話を聞く態度ではない」
改めて考えても、やはり意味がわかりませんでした。
なぜ「腕を組んでいたら、話を聞く態度ではない」のでしょうか。
腕を組んでいると偉そうに見えるから!?
そんなの誰かに植え付けられた論理の欠片もない概念でしょう。
上の出来事と同じような例がもう一つあります。
私の母校の中学校では「Tシャツの裾をハーフパンツの中にしまわなければならない」というルールがありました。
今現在も、このルールなのかはわかりませんが、当時は裾を出していると恐い恐い先生方から怒られてしまいますので、生徒たちは仕方なくTシャツの裾をハーフパンツの中にしまっていました。
私は、たまにふと考えることがありました。
と言うか、私以外にもきっと考えた人はたくさんいたことでしょう。
「なんでTシャツの裾をハーフパンツの中にしまわないといけないんだ!?」って。
結局、答えは出ませんでした。
つまり、「Tシャツの裾をハーフパンツの中にしまわなければならない」というルールは、誰かが決めた意味不明なルールの一つに過ぎないと思うのです。
衣服は、体温調節や物理的な危害から身を守ったり、オシャレを楽しんだり、自己表現のためにあるものだと考えます。Tシャツの裾をハーフパンツにしまう必要性はあるのでしょうか?
同様に、話を聞いている時に腕を組んでいたら態度が悪いのでしょうか?
これらの問いに対して「はい」と回答するならば、「それは一体なぜ?」
もし、明確に答えられないのであれば、常識という名の屁理屈に踊らされているだけでしょう。
私には、好きな言葉がいくつかあるのですが、その中の一つに以下のような言葉があります。
「常識とは、十八歳までに覚えた偏見である」という言葉です。
真実かどうかはわかりませんが、アルベルト・アインシュタインが言った言葉らしいです。
そのとおりだと思います。
常識は偏見でもあるのです。
常識を常識と捉えずに、冷静になって深く考えてみて欲しいです。
盲目的に信じられていることは正しいことなのでしょうか?
様々な人と会話をする中で、頭が凝り固まってしまったような人が数多くいることに気付きます。
洗脳じみた教育のせいでしょうか。
常識を常識だと盲目的に受け入れて「その常識には何の意味があるのかを考える」という人が少ない気がします。
私は常識を疑うことで、世界がより良くなると思っています。
常識の中には前述したような謎の慣習(意味のない慣習、意味があったとしても現在には当てはまらない慣習)がたくさん混在していると思うからです。
「一億総啓蒙思想家」を目指しましょう。
ちょっとフザけて言いましたが、本気で思っています。
常識を疑い改善に努める人が増えていけば、きっと今よりもずっと生きやすい社会へと変わることでしょう。
コメント